2022年1月31日月曜日

【神社巡りNo.11】玉敷神社

神社巡りの11回目になります。
今回は、埼玉県加須市にございます、玉敷神社へお参り致しました。
ここの神社は、穴場で、広くて歴史のある神社ですが、わりと空いてます。
駐車場が狭いのでお正月などは路駐になるのですが、みんな路駐の為、取り締まりに会ったことないといいますか暗黙の了解なんだと勝手に思っています(笑

参道が長いです。雰囲気が良いです!!
また、境内が広くて気持ちいいです。
こんな立派な神社ですが、わりと空いてるので結構お参りしています。毎年+αでお参りしているので個人的にはお勧めの神社になります。







その他、スライドショーにしていますので、お時間がございましたら、ご覧ください。

御朱印になります。

歴史についてですが、社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載され、小社に列格している。
元は現在地の北方の埼玉郡正能村(現:加須市正能)に鎮座していた。天正2年(1574年)、上杉謙信が武蔵に出兵した際に兵火にかかり、社殿を焼失した。このとき古文書・社宝等も焼失したため、それ以前の歴史については不詳である。江戸時代に埼玉郡根古屋村(現:加須市根古屋)の騎西城大手門前に再建された後、寛永4年(1627年)ごろに現在地に遷座した。
江戸時代までは「久伊豆大明神」とも称されており、埼玉郡の総鎮守として尊崇されていた。(Wiki)
詳しくは公式HPでご確認お願い致します。

場所ですが、隣接する玉敷公園の駐車場が宜しいかと存じます。


2022年1月29日土曜日

【神社巡りNo.10】前玉神社

神社巡りの記念すべき10回目です。

今回は、埼玉県行田市にあります、猫とさきたま古墳群で有名な神社へお参り致しました。

ここの神社は、数回訪れていますが、猫を見たくて来てしまいます。

地図を見て頂くと分かりますが、さきたま古墳群と隣接しているので、神社の蠟梅のトンネルを抜けると古墳群が見えます。

境内の蠟梅のトンネル


そこを抜けると・・・・古墳群が目の前です。

古墳と猫と歴史と触れ合える神社は、滅多に無いと思われますので是非!お参りください。

猫が数匹いますが、わりと会いやすい猫ちゃんが、恐らくさくらちゃんと思われます。違ってたら申し訳ございません。
可愛いんです!自由に境内内に歩いているのでびっくりさせないでください!
また、神社が高台にあるので、お足の悪い方には厳しいですが、サポートを受けながら、上ることで達成感あります。

その他、スライドショーに纏めてますので、お時間ある時にご覧ください。

御朱印を貼ります。時々、限定の御朱印もありますので公式HPでご確認下さい。
お守りも可愛いです。

歴史についてですが、古墳群にある神社なので、歴史があり国にとっての存在意味も高い神社と想像できます。また、創建は不詳。前玉神社は埼玉古墳群内に鎮座し、本殿も古墳群の方向に建てられている。これら古墳群の首長層が前玉神社における古代祭祀集団と推定され、古墳時代に古墳群を守護する形で祀られたのが創祀になると推測する説がある。
社名「前玉」の由来も明らかではないが、神亀3年(726年)の戸籍帳である「山背国愛宕郡雲下里計帳」(『正倉院文書』)にも「武蔵国前玉郡」の表記が見えることから、この「前玉」がのちに「埼玉(さきたま/さいたま)」へと変化したと考えられている。

場所ですが、さきたま古墳群近くにあり、駐車場もそこそこ広いので分かりやすいと思います。


2022年1月26日水曜日

【神社巡りNo.9】行田八幡神社

神社巡りの9回目になります。体力が続く限り頑張ってお参り致します。

理想は、お参りすることで病気も改善できれば良いなーと思っています。

今回は、埼玉県は行田市にございます、行田八幡神社にお参り致しました。

ここに何故行ったかと言いますと、行田市が行っております、花手水WeeKに合わせてお参り致しますと奇麗な花手水を見ながらのお参りと気持ちが向上致します。

花手水WeeKに関しての情報は、こちらでご確認お願い致します。

こちらが花手水です。めちゃくちゃ奇麗です。

神社は、とっても混んでました。人気があるんだなーと感じたのもありますが、境内も奇麗に清掃されていて非常に気持ちよく見れる神社です。神社の裏は、通常そんなにきれいなイメージ無いと思いますが裏も奇麗です。これは驚き。
こちらが裏です。


裏とは思えないですよね。過去一奇麗です。
表も(笑 見せなければいけませんね・・

全体的にまとまった良い神社だと思います。
その他、動画にしておりますのでお時間ある時にご覧くださいませ。
御朱印貼ります。青い方が限定となります。

歴史についてですが、行田八幡神社(ぎょうだはちまんじんじゃ)は、埼玉県行田市行田にある神社。行田の総鎮守神社とされている。元和・宝永・弘化の年間における行田町大火の際、再三の類焼の災禍に会い、旧記重宝等を焼失して創建の時期は不明である。口碑によると平安時代中期に源頼義・源義家が、奥州討伐のために滞陣した時に、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられている。当初、佐間村田中に鎮座し、俗に田中(でんちゅう)八幡と称していた。天文年中に、現在の地に移した時、忍城主成田下総守長泰は深く崇敬して社殿を修補し城下総鎮守とした。これより、「城主八幡」また社殿の向きから、「西向き八幡」の名がある。江戸時代には、代々城主の尊崇篤く特に阿部忠秋は、八幡大神の御神像を奉献し、次いで阿部正識も自筆の額を献進した。 社殿の造営は、元和五年再営ののちに宝永年間に焼失、宝永四年に再建、宝永五年には幣殿・拝殿を再建している。弘化三年行田大火で社殿全焼した時、町全体が焼失し、氏子による社の再営が不可能となったため、祀職家が同年本殿を再建した。 現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月に竣功し、次いで平成十二年には参集殿が竣功した。(Wiki)

場所については、分かりやすい場所にありますし、駐車場も大きいです。3か所ぐらいあると思います。神社にある駐車場は数台程度ですので、お近くにある第二、第三駐車場が宜しいかと思います。



2022年1月25日火曜日

【神社巡りNo.8】加波山神社真壁拝殿

神社巡りの8回目になります。

今回は、茨城県石岡市にございます、加波山神社真壁拝殿にお参り致しました。

近くに似た名前の神社がございますが、今回はこちらに致しました。

第一印象は、今までお参りした中で一番華やかな神社でした。正直、お金かかってそうwって思ってしまうくらい見た目は凄いです。



凄く豪華じゃないですか???
是非、足を運んでご覧ください。驚かれると思います。
その他、動画にしてございますので、お時間ある時にご覧ください。


御朱印を貼ります。今回は書いて頂きました。毎回頂けるのか不明ですが・・・草履頂きました。


歴史についてですが、加波山神社(かばさんじんじゃ)は、茨城県の加波山山頂、石岡市大塚に鎮座する神社。筑波山などとともに連峰を形成する加波山に対する加波山信仰に基づく神社だった。旧社格は郷社。加波山山頂からやや北に隔たった尾根筋に本殿が鎮座し、更にその北方に拝殿がある。また東西の両山麓にそれぞれ遥拝殿としての里宮がある。鎮座地には近接して加波山本宮と親宮も鎮座、この両宮を併せて加波山権現と総称され、両宮に対して中宮(ちゅうぐう)(加波山神社中宮・加波山中宮)を称し、一に中天宮(ちゅうてんぐう)とも称す。
明治初年(19世紀後葉)までは文殊院(もんじゅいん)という宮寺一体の真言宗寺院で、加波山東麓の石岡市北東周辺に旧来の信仰圏を有する常陸国有数の修験道の霊場でもあった。
社伝に、景行天皇の時代に日本武尊が現在の東北地方を平定するに際して加波山に登拝、神託により天御中主神、日の神、月の神の3神を祀り、社殿を建てたのが創祀で、延暦20年(800年)には征夷大将軍、坂上田村麻呂も東北地方平定に際して当神社へ戦勝を祈願し、大同元年(806年)に社殿を寄進したといい、当地へ訪れた弘法大師(空海)によって「加波山大権現」と号されたとも、仁寿2年(852年)乃至は3年の創祀であるともいう。また、加波山権現は貞観17年(876年)に従五位下を授けられた国史見在社の常陸国三枝祇神に比定されているが、「三枝神社」と識された棟札が残されている事から、3宮中の特に当神社がそれであるとする説もある。
加波山権現は現在、当神社と本宮、親宮の3神社に分かれ、遅くとも近世にはこの形態であったが、社説に依ればこれは和歌山県熊野三山の祭神が勧請されて本宮・親宮の2宮が新たに創建されたためであるという。また、一山支配ではなく三山鼎立の現象が現れたのは或いは加波山が筑波山の枝峰である事から筑波山神社の下でその地位も低く、独自の信仰を展開するまでに至らなかったためと見られ、事実信仰内容も略共通するのであるが、とまれ近世以降は文殊院を別当とする宮寺一体の形態を採り、大塚村(現石岡市大塚)に祀られていた神社仏閣の殆どの別当職を兼帯するとともに同村の滅罪寺(葬儀を行う寺)として宗教的中心ともされ、併せて古くから加波山を修行場とした修験者(山伏)を宮に所属させて呪術や加持祈祷を行う「山先達(やませんだつ)」として組織化していた。また幕府から朱印地5石を与えられていたが、文化頃(19世紀初め)に本社再建のための講が結成されており、これは維持経営のための財源確保を目的とするものと思われるが、この頃を契機として山先達の宗教行為を媒介として周辺部落に神輿を巡幸させたり(現おみこし渡御祭の起源)、寛政(18世紀末)頃迄に山中の修行霊場を「禅定場(ぜんじょうば)」として整備するとともに登拝を促す組織として禅定講(ぜんじょうこう)を結成させたりする等の積極的な布教活動を展開し、それが地方的にせよ嵐除や殖産といった広範な信仰を獲得する要因となったと思われる。
明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると一旦神社となったが、これを廻って訴訟が起こったため、翌2年5月に改めて取極めを行って神社と寺院(現文殊院)を分離し、同6年(1873年)に郷社列格、社名を「加波山神社」とし、同11年(1878年)に参拝者の便宜を図って東麓の大塚村(現・石岡市大塚)に拝殿を建立(八郷拝殿)。平成16年(2004年)には西麓の真壁町(現・桜川市)に箱根大天狗山神社の資金提供で新たな里宮(真壁拝殿)を建立した。(Wiki)

場所ですが、ちょっとわかりずらいので、GoogleMapを利用してください。