2022年1月12日水曜日

【神社巡りNo.3】鷲宮神社

神社巡り3回目になります。

今回は、埼玉県久喜市にあります、鷲宮神社にお参り致しました。

鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)は、埼玉県久喜市鷲宮一丁目に所在する神社。「関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称する。天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神とする。

なお、本記事で取り上げる本社の鷲宮神社だけでなく、旧太田荘周辺には数多くの同名の分社が存在し、久喜市内にも下早見に2社、後述する八甫に1社鎮座している。

国名を冠し「武蔵国鷲宮神社」と呼称することがある。

この神社は、20回ほどお参りしている神社で、昔は隠れ家的な場所で仕事中、駐車場で寝てましたwwwぐらいな場所でしたが、らき☆すたの効果で一気に有名な神社となりましたね!

先日お参り来たときは、鳥居がまだ未完成だったのですが、完全に復活してました。これは、らき☆すたファンも泣いたと思います。

 本日、2022.1.12の鳥居の状況。
神社の歴史について
鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の建長3年(1251年)の記載が最初であり、この主張は根拠を欠いている。「関東最古」と称するようになった時期は不明だが、吉田神道により、遅くとも享保18年(1733年)に完成した『神名帳考証』までには延喜式内社・前玉神社論社に比定され、後に鷲宮神社もそれを受け入れている。明治以降、「前玉神社の論社」とは名乗らなくなったが、「関東最古」はそのまま残った。なお、発掘調査によって縄文時代の遺跡(鷲宮堀内遺跡)が見つかっており、古くから住民がいたことはわかっている。
中世以降には本社周辺の地域が将軍領・太田荘となり、総社・総鎮守として扱われたことから関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『吾妻鏡』にあり鎌倉幕府の祈願所として扱われていたほか、藤原秀郷・新田義貞・古河公方・関東管領の歴代上杉氏、後北条氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。鎌倉時代から室町時代までは太田荘の総社であったため藤原秀郷流太田氏が収め、南北朝時代頃からは下総国守護の小山氏が管理しており、裏手には栗原城という城郭が存在した。応安5年(1372年)には小山義政が社殿を再興している。また、太田荘内、中川(古利根川)沿いには多数の分祀が生まれた。
天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し、歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。小山氏が滅んだあと、戦国時代ごろから宮司職は明暦3年(1657年)の『鷲宮神社縁起棟札』によれば祭神の良岑安世の子孫とされる大内氏に代わり、江戸時代初期から明治時代初期までも引き続き、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光が日光東照宮を参拝した際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は利根川に落水した家光を助けた。この功により、本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためか、その代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため、江戸城への登城時は大名が通される部屋に通されたほか、大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。
供僧としては、新義真言宗豊山派の大乗院・万善寺・福伝坊・実相院・宝珠院が存在し、その中でも大乗院が僧頭(別当寺)の地位にあった。鷲宮神社の宮司である大内氏は、神祇管領長上の吉田家と関係を持ったことで江戸時代中期から唯一神道(吉田神道)を推進し、別当大乗院を一度は破却するなど、たびたび論争がおこった[1]。大乗院はその後復興され、江戸時代末期までは別当寺の地位を保った。
明治元年(1868年)、明治新政府により、准勅祭社(東京十二社)の1社に指定された。明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止された。准勅祭社は制度自体がすぐに廃止されるが、その後、社格は県社となり、近隣の九柱を合祀した。戦後は別表神社となっている。(Wiki)
場所について

その他、境内の様子
①動画+スライド
②写真








御朱印(本日は4種類ありました)

写真の通り凄く広くて奇麗な神社ですが、歴史もあって良い神社です。
お時間があるときに、ごゆっくりとお参りください。


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