2022年2月13日日曜日

【神社巡りNo.18】尾曳稲荷神社、長良神社及び子ノ権現神社(子神社)

今回は、群馬県は館林にございます、尾曳稲荷神社、長良神社及び子ノ権現神社(子神社)へお参り致しました。

初めに、子ノ権現神社(子神社)に関してです。情報が少ない神社ですが、足腰の神社と聞いて、自分の身体の改善を期待してお参り致しました。

情報が少ないので、小さな神社を想像していたのですが、境内は広く立派な鳥居でした。
初めに驚くのが、ステンレス草鞋の数に唖然とします。(笑 こんなに足腰に困ってる人が多いんだと思いました。

早速、私も草鞋を購入し(購入といってもお賽銭として支払うタイプです)書きました。

御朱印に関しても書置きで、お賽銭としてお納めするたいぷでした。
場所に関してです。国道から直ぐですので分かりやすいです。

次に長良神社です。長良神社は沢山あるのでお間違いのないようにお参りください。しかし、どこも同じ神社に変わりはなく神様を祀った場所になりますが、御朱印を頂けるのはこちらになります。
鳥居は茅の輪くぐりでしたので、説明通りにくぐります。
境内は非常に奇麗に整備されており、本殿も立派な奇麗なものでした。

御神木が立派でした。

ハート形のものがありました。お花が咲くころきれいでしょう!
御朱印です。親切丁寧に対応して頂き、感謝です。
歴史についてです。かつて上野国の国主としてこの地を治め、没後に春日大社の末社として祀られた藤原長良を主祭神として祀る。創建年代は不明だが、赤井照光の館林城主時代(1471年〜1562年)とされる。邑楽郡での長良神社の斎祀については、貞観12年(870年)赤岩城主で赤井氏の赤井弾正良綱が上野国の佐貫荘長柄郷瀬戸井村(現在の邑楽郡千代田町)に社殿を造営して勧請し、郡中総鎮守としたのが始まりとされ、当社は良綱の裔孫である赤井山城守照光が館林城を築城した際に、瀬戸井村から勧請して天福寺境内に鎮座させたと伝わる。当社の別当は天福寺の住僧が務めた。
代々領主や氏子の崇敬をあつめ、享保5年(1720年)12月11日には神位「宗源の宣旨」をうけて正一位を授けられた。(Wiki)

最後に、尾曳稲荷神社になります。この神社は、つつじが岡公園に隣接した神社で、神社内のも駐車場がありますが、混雑時も公園の駐車場からアクセスできると思います。
初めに鳥居にビックリするかと思います。
それと、境内の広さと奇麗さです。ずば抜けて奇麗です。




また、御本殿横に、沢山の狐がいて凄く異空間です。
神社の裏に回りますと、花の尾曳 弁財天がありますので、そちらもお参りお願い致します。
御朱印です。シンプルで好きです。
歴史については、天文元年(1532年)、赤井照光の館林城築城にあたり、城の鬼門の守護神として創建された。そのため本丸と相対して造られ、神社としては珍しい西向きの社殿となっている。
天正18年(1590年)館林に入った榊原康政は城郭の拡張工事とともに当社を再建した。正保2年(1645年)館林藩主であった松平和泉守乗寿も社殿を修築し、その後安永8年(1779年)2月にも修復されるなど、歴代の城主が社殿を修復するとともにこれを尊崇した。
江戸時代の別当寺は塚場町(現在の西本町)の惣徳院が務めた。惣徳院は当社だけではなく八幡郭の八幡宮の別当も務めていたが、両社は城内にあり朝夕の奉仕がしづらいという問題があったため、徳川綱吉領主時代の寛文7年(1667年)、両社を分霊し惣徳院境内に勧請した。明治維新後、惣徳院は廃寺となり、同寺境内の稲荷八幡両社は1908年(明治41年)、木挽町の愛宕神社に合祀されている。
1873年(明治6年)11月には村社に列せられ、1906年(同39年)12月28日には神饌幣帛料供進社に指定された。1907年(同40年)12月には八幡郭の八幡宮、鷹匠町の瓜内稲荷神社、1910年(同43年)3月には裏宿の恵稲荷神社、同年11月14日には金山の稲荷神社、広済町の稲荷神社、外伴木の八坂神社、外加法師の八坂神社を合祀している。
1930年(昭和5年)1月氏子などの寄付により社務所を改築した。1936年(同11年)には氏子・崇敬者らの寄付を元に社殿造営に取り掛かり、翌1937年9月に落成した。(Wiki)

場所は、非常に分かりやすいです。

以上となります。ご覧いただき有難うございました。


0 件のコメント:

コメントを投稿